感想あるいは通過点

優しい嘘と化けの皮の下

抗うつ薬を飲むのが怖い

 今年の三月頃、私は自己判断で抗うつ薬の服用をやめた。

 かなり挑戦的だったと思う。数種類の薬を飲んでいる中で、抗うつ薬は一番精神に影響を及ぼしている物だと言えた。他の薬は一時的に精神を落ち着かせるもので、薬効をしっかり自覚することが出来る。実感としては「身体の状態を操作する」というのが表現として当てはまっていて、様々な物が絡み合い構成されている「心」にまで何か作用しているかと言われたら私は否と答える。しかし抗うつ薬は違う。

 種類によって効果はまちまちだが、一日一回服用して体から常に成分が抜けないようにするのが通常の使い方だ。薬効は不安や落ち込みを抑える、無気力状態を改善。うつ病はもちろん、種類によってはパニック障害PTSDにも効果がある。マイナス思考に陥らなくなるので、希死念慮の類いもだいぶ楽になる。即効性は無いが効き始めた後の効果の幅が大きいので、数か月単位で調整するのが基本だ。副作用が多く、調整を誤れば躁状態に陥り時には自殺衝動を招く。

 四六時中脳みその神経伝達物質の流れに干渉されているわけだ。不安や抑うつの過多に悩み、それを軽減すべく飲んでいるのだから自由意志に基づく自己決定ではあるし完璧ではないが、錠剤一粒で思考や感情が操作出来るというのは少し恐ろしく感じる。

 当時はそこに着目しておらず、単に「抗うつ薬に頼らねばいけない状態」から一足でも早く脱したいという願望から服薬を辞めた。また落ち込みが酷くなったり死にたくなったり生活に支障をきたせば再開するつもりでもあった。

 目に見える身体的な離脱症状も終わり、緩やかに痛み苦しみたまに過去に苛まれるが生活は出来る......程度で安定した。飲む必要は無いが、飲んだ方が明らかに精神衛生が良くなるのが見込めるという絶妙なラインで、初めて疑問が生じた。

 抗うつ薬で無理やり引き出した感情や欲求は果たして自分の物と言えるのか?

 服薬を中断してから、明らかに物欲が消えた。感情も平坦になった。人に興味がわかない。他者との交流はどんどん減っていった。身を滅ぼすような過激な衝動から解放されたことは喜ばしいが、私は明らかな「性格の変化」に驚いた。時期が時期であるため環境の変化が精神に良い効果をもたらし抑うつからくる自滅欲求的な症状であった過激な衝動を解消したとか別にいくらでも憶測は出来る。が、それにしても変化が凄まじい。それぞれの状態を性格だと捉え文字で書き起こして比べるなどしたら、きっと誰も同一人物だとは思わないだろう。また薬を飲めば前のような性格になるんだろうか? 他者の存在を喜ぶまでならいざ知らず、自他を壊すことを生きがいとする快楽主義者に? 薬効は一過性だ。でも用法容量の都合でそれらは持続する。錠剤一粒で別人になる。そんなの改造じゃないか。

 自分自身という「そのもの」に直接的な介入をされること、これ自体は抵抗はあるがそれより恐れていることがある。心という見えない何かが、結局のところ脳みその電気信号やら物質やらのやりとりで生み出される神秘性の欠片もない反応であるということを思い知らされることだ。心が「そういうものであると見做されたもの」であることは重々承知しているが、それとこれとは話が別だ。私という概念が行き場を失う。哲学が私という存在を否定できなくても、私を形作るものが環境や物質に左右されるだけの肉塊であるなら、そこに自由や意志はあると言えるのか。私が何かを望んだり選んだりした時、本当に私がそれらをしたと言えるのか。肉塊が出した最適解を自由だと思い込んでるだけではないか。突き詰めればそうなのだとしても、私は複雑性が生み出した神秘を、心という不確かさを、錠剤一粒なんかに否定されたくないのだ。

 感情ぐらい、正しさを無視して自由でありたい。その他全てを取り繕っているのだから、何を求め望むのかぐらいは理想に合わせて調節したくない。薬で無理やり湧かせたものなど、取り繕っているのと同じだ。そんなの「私」ではない。

 驚いた。私は私を嫌っている癖に、これじゃあまるで信仰しているみたいだ。