感想あるいは通過点

優しい嘘と化けの皮の下

感情バグへの恐怖

 昔から転んだ友人に駆け寄ることが出来ない子どもだった。

 異常なのは今に始まったことじゃない。生まれた時から変わった子どもとして扱われ、それを自身の肌身で感じながらすごしていた。違和感を違和感のまま抱きかかえ、とりあえずちょっと置いてみたり、観察してみたりしているうちになんとなく対処方法を覚え、深く考えることなく忘れ去っていた。

 心という見たり触ったり出来ない物を当時の友人(と認識していた人達)と擦り合わせをしようというのは、なんとなく怖くて。避けていたのだと思う。他者に心の在りようを任せるのは社会性を持つというのと同義で、わざわざその違いを確認し、言葉の真意を探るのは自分が露出魔になったり、相手の服を無理やり剥いだりすることのように感じられたのだとうっすら記憶している。それに、相手の感情や動機が理解できない、とだけわかっていることをばらすのは、今でもリスキーだと感じる。そこは変わらない。

 何故服を着なければいけないのか、毎日己に問うている人はいないのではないだろうか。偽ることに慣れてから、私は人と違うことをあまり気にしなくなった。心の底が違えど、友人が転んだ時には駆け寄って、手を差し伸べて、心配の言葉をかければいいい。そういう積み重ねだけが私を構成していた。毎日エラーを吐いては、小さな成功例を脳みそに書き留める日々。それらを成長における課題だと信じてやまなかった。

 中学生の真ん中頃、取り返すのが難しい形で体を壊した。過敏性腸証拠群と、おそらくストレスによる自律神経の破壊に付随してきた微熱。学校についてはトイレに駆け込盛り、数日すれば熱を出して家に籠る。わかりやすい、いじめられっ子の引きこもりパターンだ。それでも私は引きこもることを選択できなかった。

 あれは、もしかしたら感情の欠落が引き起こしたのではないかと推測している。いじめられっ子であるという自己認識はあったし、明確に敵意は抱いていた。だがそこに、助かりたいだとか自己は守られるべきだとか、そういう自分を尊重するようなものが一切含まれていなかった。敵意を持つ相手と比較をすることで自分の味方に立つことは出来たし、何より、ここまで内面が出来損なっていても肉体を持ち、そこに神経が通っていることに変わりはない。殴られれば痛い。だから殴られたくはないなと思う。それだけだ。人間に対しても、ウイルスに対しても、気候に対しても、態度は変化しない。肉体に不快感を与える現象に対して消えてくれたら良いのにと思うだけ。

 この自己を尊重したいという感情を、私は未だ上手く自分の物に出来ていない。少し気を抜けば身を滅ぼすまで神経をすり減らしているし、その逆もまたしかりだ。だいたい、そこには自分か相手の屍が転がっている。自分の意志と身体のバランスですら危うい。自分のやりたいことのためなら、自分の命を差し出して勝ち取りに行く。それに対する当然の心配を、搾取者の支配であると切り捨てる。

 転びそうだからと駆け寄られているのに、その心の内を理解出来ないのだ。

 手を振り払うだけならまだしも、逆上して相手を傷つけてしまうとは何事だ、と落ち着いてみれば思う。しかしそれすら一時の感情の波に飲まれてしまえば見失う。死にたいという破滅願望を自覚してから、これらはより一層酷くなった。

 おそらくまだ、私がわかっていないだけで色んなものが欠け落ちている。自分だけが持っていなくて、他の人が多少形は違えど同じものを持っている、という事例に今後も気づけるのだろうか、と考えると恐怖でいっぱいになる。見えないのだから、知りようがない。私にとっての赤が、他者にも同じ赤に見えているとは限らない。そもそも言葉なんていうものに心は完全に落とし込むことが出来ないし、その心がどうなっているかだって全てを把握する術は、現在どこにもないのだ。

 しばらくは布団の中で震えあがっているか、こうやってひたすら文字に叩き起こして自分を実験動物のように扱う日が続く。ある意味での死刑宣告だ。