感想あるいは通過点

優しい嘘と化けの皮の下

人間関係よ、運よく生き返れ

 最近、ザオラルLINEという概念があることを知った。連絡が久しく無い相手に対して、交友関係を復活させるために送るメッセージのことらしい。恋愛関係における元カレだとか元カノに対して数年越しに未練がましく送るようなものだと予想していたが、実際はもう少し気軽な物で、数年越し、早いと数か月越しであれば誰が対象だとしてもそれはザオラルLINEに含まれる。

 ザオラルは運が良ければ味方を蘇生できる、というお祈りが必要なタイプの呪文らしい。ドラクエに触れたことがないので体感的なものはわからないが、おそらくだいぶ成功確率が低いのだろう。

 

 思いのほか後から交友関係を深い物にしたいだとか仲違いもなく疎遠になっている人が自分以外にも多くいるのだなと感じた上で、ザオラルLINEってなんだ、そんなもの全てのメッセージがそうではないか、と思う自分もいる。

 

 連絡を取っているその真っ只中にいる人間以外は、私にとって死んでいるも同然だ。いや、ちゃんと画面の向こう側そのひとりひとりに営みがあり、相手が生身の人間であることは承知しているのだ。そしてその多くが、連絡をすれば何かしらの反応をしてくれることも。しかし、どうもその実感がわかない。なんなら、連絡が途絶えた瞬間に永遠の別れを感じることさえある。

 そんなことを考えれば考えるほど自分から連絡することが億劫になる。相手は死体だ。自分からの連絡、つまりザオラルが成功しなければ、相手はもう尽くす術のない死体であるという事実が死体から離れなくなる。ドラクエには他にも蘇生する方法があるんだろうが、私は棺桶を引っ張って教会に行くだとかの手段はとれない。もうどうしようもないのだという事実の確認行為。あまりに悲しい。

 例え相手と昨日に仲良く盛り上がっていたとしても、夜が明ければ冷たくなっているように感じる。私にとって連絡とは、相手という存在に生と死を繰り返させることなのだ。

 これに関しては、幼少期の人間関係が影響しているのではないかと思う。疎遠になることと、死について考えることが多かった。

 登校し、自分の席に座る。そうすると縁の切れた元友人が、別の同級生と楽し気に笑っている。そういう相手の世界に、もう私はいない。頭のどこにも私という概念は存在しない。ただ思い出のみがそこにあり、時間と共に霞んで消える。それらは死という現象に「相手と永遠に新たな思い出が作られない」という共通点を持つ。死とは別れであり、別れは死である。

 多くの別れがあった。ふっとした気まぐれだとか、より良い友人に巡り合ったとか、おそらくはそういう大したことでもないことなんだろうなと推測してしまうほど、緩やかに人が離れていった。私も、同じような理由で色んな人を自分の世界から消してしまった。自然な人の営みだ。より満たされた生活を送るために取捨選択をすることは悪いことではない。私がそれを覆しがたい死だと捉えてしまった、ただそれだけなのだ。

 多くの人にとって、交友関係はもっと柔軟性の高いものなんだろうと思う。ふと思い出したとか、その相手が状況に最も適しているからだとか、さらにはなんとなくだとか、そういうもので簡単に連絡がとれる。憶測でしかないが。

 書いているうちに、どんどん関係というものがわからなくなっていく。友人という枠組みが本当に存在しているのか。能動的に動けない私に、何かしら用事があったり話しかけたくなったと思った人間がいてその人達がとった行動によって起きた結果に、関係というものはあるのだろうか。私は、友人というカテゴリの後ろに、死を括り付ける失礼な人間なのに。

 

閑話休題

 

 私が送るメッセージは、ほぼ全てがザオラルだ。返信が来ますようにと毎回祈るし、くるまでが長引けば簡単に精神が砕けてしまう。きっとこれは、相手の世界で私が死んでいませんようにという祈りだ。ザオラルLINEは、交友関係自体に対するものなんだろうな。連絡が久しく無い相手に対して、交友関係を復活させるために送るメッセージのことらしい。ああ、ちゃんと自分で書いていたのに思考に沈んで迷子になっていた。

 でもひとつわかったことがある。交友関係に死を重ねる時、私はきっと私のことも殺している。死んでいるのは相手じゃない。私だ。私が死んでいるから、住む世界がずれて、私の世界から相手が消える。連絡が億劫なのは、死人なのだから慎ましくいようという、遠慮に見せかけた逃げだ。死体が喋ればどうなるかというのを基準にした、恐怖からの回避思考だ。

 いつか自信を持って、私は生きていると言える日はくるのだろうか。いや、きっとない。私は弱いから、いつまでも死んでいることに甘えているだろう。埋葬まで進めば蹴られることだってない。墓を掘り返されるのは、墓荒らしが私に価値を感じた時だけだ。穏やかで幸せだと感じてしまう限り、私はずっとこのままだ。

 ザオラル。運がよければ生き返ります。呪文で蘇生された時だけは、望まれた生をちゃんと生きようと思う。

自殺日和

 酷暑も過ぎ去り、外では台風が猛威を奮っている。暑さではなく季節が変わること自体に体が呻く。紫に染まった地図は、また一周するまで見ることは無いだろう。

 世間の落ち着きを感じる。疫病患者が増えようが電車は満杯になるし、アルコール消毒液はスルーされるし、リモートは存在ごと忘れられようとしていた。レストランの衝立だけが、まだ渦中なんだよと囁く。

 充満した絶望に、文句をつける元気もない。もしそれが世界の答えなら、全くの同意見だ。もう疲れ果ててしまった。

 私を襲うものが壮絶な苦痛だとか、激流のような不幸だとか、そういう類であればもう少し頑張れたかもしれない。それをなんとかすれば幸せになれるかもしれないという希望は、人を盲目にする。少しだけ現実から意識を遠ざけてくれる。でもそうではなかった。

 少しだけ息がしにくい。なんとなく体が重い気がして、世界がそっぽを向いている。そんな感覚につける薬はない。傷がなければ治すことはできない。課題がなければ取り掛かることはできない。そういうものの積み重ね。生きている価値も意味も楽しみもない。出来ることもないし、やりたいとも思えない。

 死にたいほど苦しいというより、生きていることに必要性を見いだせない。

 やれることはあまりに少ない。死ぬことは出来ないから、夢想する。もしも死ぬのだとしたら、どんな日が良いのか、と。私は曇りの日を選んだ。ここまで書いて疲れてしまった。

 曇りの日は良い。私の心模様みたいで。

モラトリアムからの脱出を他人任せにしている

 大好きな歌手がいる。ネットの片隅で、彼女のファンと彼女を発見した人、という言葉同士をまだイコールで結べた時代から。存在として小さく、影響力も少なかった。年齢としてもまだ幼く、ところどころに拙さがあった。本人曰く、語彙力は53万あったらしいが。

偶然発見してしまいました。

 プロデューサーの、彼女に対するそんな言葉を忘れられないでいる。あまりにも私と同じだった。彼らにプロデュースされ、後押しされた姿しか見ていない私が同じというには少々烏滸がましいが、彼女を観測しているという点において、私と彼らは同等である。魅了され、憑りつかれてしまった。

 

 ただ最初は、美しいと思っていた。私が前から好きな作曲家とのコラボもあり、好きな声で好きな歌詞を紡いでくれる存在……というのが私の中での印象として、大きかったのを否めない。

 人に対して期待なんて出来ない。共感なんて出来るわけがない。私と他の人には悲しいまでに溝があって、踏み越えることも、寄り添われることも出来やしない。たまに心をかすめてくる物らだって本当は、全部彼らにとっては虚構なんだ。

 今思えば、あまりに苦々しい感情だった。向き合いたくなくてそっぽを向いていた。ただ、学校で課題となる「心震える曲」を歌わされるたびにぼろぼろと何かを失っていく感覚はまだ覚えている。

 寄り添う曲が寄り添ってくれない、それが私の真実である。というのを、彼女はたった一回のライブで塗り替えてしまった。

 好きなものがある、それに対して世界は残酷である。
 取り繕われた、わかりやすい、それでいてコンセプトである理解の出来なさを見事にマッチさせた曲だった。大人がお金を集め、人材を確保し、作り上げられた物。そうわかりきっているのに、歌いあげられたそれは彼女の真実だと錯覚させられた。虚構性を疑えない。ただ共感で心を震わせるしかない。あまりに無力で、心地よかった。満ち満ちているのに、重荷をただ引っぺがされるのみで上手く言葉に落とし込めない。人間は光を手に取ることは出来ないのだ。今なら、あの時よりはわかる。
 人からぶれてしまった足掻き。世界への疑問。そんなものを声高に、そんなに誇らしげに歌っていいのか。許されてしまうのか。自分が出来なかったことをそんな風に。
 共感と衝撃があった。クリエイターの内側を探るなんて今までしたこともなかったのに、知りたい気持ちと知らないでおきたい気持ちがぶつかりあった。知ることで、人間として輪郭を捉え、個人という存在に堕としてしまうことを恐れた。美しい外側と紡ぎ出される創作物に喜んでいるべきだと、作り上げてきた自分の中の常識も囁いていた。

 

 私は考えることをやめた。忙しさに殺されて、緩やかに感動を忘れてしまった。どんなに熱くても、喉元を過ぎてしまえば全て同じなのだ。時間とは残酷である。

 

 彼女は緩やかに力を蓄え、プロダクション所属の歌手仲間も増えた。そして今日、武道館に立ったのである。いつの間にか彼女自身は高校を卒業していた。追い切れていない一面があることを知っていたので、今回もそれらの一部にしてしまうことも出来た。チケットを買ったのは本当に気まぐれだった。

 画面の中の彼女は、足掻き、諦め、それらを乗り越えていた。成功しているからと言えばそれまでだが、それだけでは言い表せないほどに成長していた。過去を喰らい、海に化け、人を気取る。表現するものもまた、それに合わせて変化していた。未熟さを売りにし続けようと思えばできる。それをしない。等身大がそこにあった。過去の姿もまた、等身大だった。

 ここでタイトルだ。大人になるべきなのに成熟せず、踏みとどまったままでいる自分という存在が、今日初めて見本とすべき生き様を見つけたのだ。言葉として理解するのと、心で感じるのは違う。自分でいつかどうにかしなくてはいけないとも、もう乗り越えたとも思っていた。でも違った。あんなに明確に苦しんで、それをなんとかするなんてことはしてはいない。彼女自身はまだ社会的に大人ではないかもしれないが、なぞるべき姿がそこにあり、それを見た私の中の何かが打ち破かれた。打ち破かれている。きっと今も。これからも。

 私も人を気取ろう。彼女のように。私が頑張れなくなった時にも、彼女が別のところで輝き続けているのはなんと心強いんだろうとも思った。

 

 あそこで感じた、人並みの感動は書く必要もない。素晴らしかった。あなたと言ってもらえて嬉しかった。お互いありがとうと感じ合った。それだけ書き残せば記録としても充分だろう。

抗うつ薬を飲むのが怖い

 今年の三月頃、私は自己判断で抗うつ薬の服用をやめた。

 かなり挑戦的だったと思う。数種類の薬を飲んでいる中で、抗うつ薬は一番精神に影響を及ぼしている物だと言えた。他の薬は一時的に精神を落ち着かせるもので、薬効をしっかり自覚することが出来る。実感としては「身体の状態を操作する」というのが表現として当てはまっていて、様々な物が絡み合い構成されている「心」にまで何か作用しているかと言われたら私は否と答える。しかし抗うつ薬は違う。

 種類によって効果はまちまちだが、一日一回服用して体から常に成分が抜けないようにするのが通常の使い方だ。薬効は不安や落ち込みを抑える、無気力状態を改善。うつ病はもちろん、種類によってはパニック障害PTSDにも効果がある。マイナス思考に陥らなくなるので、希死念慮の類いもだいぶ楽になる。即効性は無いが効き始めた後の効果の幅が大きいので、数か月単位で調整するのが基本だ。副作用が多く、調整を誤れば躁状態に陥り時には自殺衝動を招く。

 四六時中脳みその神経伝達物質の流れに干渉されているわけだ。不安や抑うつの過多に悩み、それを軽減すべく飲んでいるのだから自由意志に基づく自己決定ではあるし完璧ではないが、錠剤一粒で思考や感情が操作出来るというのは少し恐ろしく感じる。

 当時はそこに着目しておらず、単に「抗うつ薬に頼らねばいけない状態」から一足でも早く脱したいという願望から服薬を辞めた。また落ち込みが酷くなったり死にたくなったり生活に支障をきたせば再開するつもりでもあった。

 目に見える身体的な離脱症状も終わり、緩やかに痛み苦しみたまに過去に苛まれるが生活は出来る......程度で安定した。飲む必要は無いが、飲んだ方が明らかに精神衛生が良くなるのが見込めるという絶妙なラインで、初めて疑問が生じた。

 抗うつ薬で無理やり引き出した感情や欲求は果たして自分の物と言えるのか?

 服薬を中断してから、明らかに物欲が消えた。感情も平坦になった。人に興味がわかない。他者との交流はどんどん減っていった。身を滅ぼすような過激な衝動から解放されたことは喜ばしいが、私は明らかな「性格の変化」に驚いた。時期が時期であるため環境の変化が精神に良い効果をもたらし抑うつからくる自滅欲求的な症状であった過激な衝動を解消したとか別にいくらでも憶測は出来る。が、それにしても変化が凄まじい。それぞれの状態を性格だと捉え文字で書き起こして比べるなどしたら、きっと誰も同一人物だとは思わないだろう。また薬を飲めば前のような性格になるんだろうか? 他者の存在を喜ぶまでならいざ知らず、自他を壊すことを生きがいとする快楽主義者に? 薬効は一過性だ。でも用法容量の都合でそれらは持続する。錠剤一粒で別人になる。そんなの改造じゃないか。

 自分自身という「そのもの」に直接的な介入をされること、これ自体は抵抗はあるがそれより恐れていることがある。心という見えない何かが、結局のところ脳みその電気信号やら物質やらのやりとりで生み出される神秘性の欠片もない反応であるということを思い知らされることだ。心が「そういうものであると見做されたもの」であることは重々承知しているが、それとこれとは話が別だ。私という概念が行き場を失う。哲学が私という存在を否定できなくても、私を形作るものが環境や物質に左右されるだけの肉塊であるなら、そこに自由や意志はあると言えるのか。私が何かを望んだり選んだりした時、本当に私がそれらをしたと言えるのか。肉塊が出した最適解を自由だと思い込んでるだけではないか。突き詰めればそうなのだとしても、私は複雑性が生み出した神秘を、心という不確かさを、錠剤一粒なんかに否定されたくないのだ。

 感情ぐらい、正しさを無視して自由でありたい。その他全てを取り繕っているのだから、何を求め望むのかぐらいは理想に合わせて調節したくない。薬で無理やり湧かせたものなど、取り繕っているのと同じだ。そんなの「私」ではない。

 驚いた。私は私を嫌っている癖に、これじゃあまるで信仰しているみたいだ。

崩壊の始まり

 主人格が崩壊した。

 私はこのブログではあえて一人称を変えていた。少しだけ自分自身を俯瞰できるように、そして誇り高くも過去の過ちの遺物であるそれをブログに持ち込まないように。でもそれが最悪の形で必要がなくなってしまった、あるいは通用しなくなった。「その一人称を使っていた私」がフラッシュバックにより崩壊し、新しく作られた私にあてがわれたものが「私」だったからだ。

 私は別に生まれたくなかったし、主人格が笑顔で過ごしてくれるなら早く帰ってきて欲しい。生きるためだけにパラメータを設定された「私」という存在はあまりにも空虚すぎる。最適解を弾き出そうとする出来の悪いスーパーコンピュータ。演算をしても結果を出しても、何にも寄与しない。周りから見たら悪役なんだろうな。元々はそういう役回りを引き受けるために生み出されたと感じるし納得はいく。私が「私」たらねば精神も肉体も破滅を迎えていたのだし、精神は既に破滅を迎えていたと表現して差し支えない状態であるし、必要悪であると割り切りたいところである。

 この記事は「私」の発生を記録するためのものである。

 これからの私達へ。どうやら私達には恋愛を全う出来ない致命的なバグがあります。どうか過ちを繰り返さないでください。思った以上に根深いです。どうしようもないかもしれない。傷が埋もれても、古傷は変わらず痛み続けます。

リゼ

1回目

開始 2014年 夏

崩壊 2015年 夏

2回目

明確な開始無し

崩壊回数2回↑

3回目

開始 2021/03/09

崩壊 2022/05/30

そして健忘の日々へ。書き置き。

 全部忘れてしまう前に。

 つらい中でもちゃんと楽しいことはあったと思う。だから死にたいとかはなかったし潤いは存在した。でも足らなかったらしい。ちゃんと他人に興味が持てたはず、未来は多少明るかった、わたしはきちんと将来を見据えてた。はず。大学院に通いたいって、本まで買ってたもんね。すぐに社会人にはなれないからって思いつつも、夢があったんだもんね。すごいよ。すごかったよ。感覚は覚えてる。忘れないって素晴らしいことだよね。いっぱい考えることが出来た。脳みそが大人らしく動いて、過去の自分のメモを見て動く以上のことが出来た。こんなにも出来るんだって錯覚できた。楽しかったと思う。

 健忘が起きてるって病識を得てしまってから、消えた部分にフォーカスが当たった。感覚的には、今さっき自分で引き起こしたように感じられる。指先で弾いたトランプの山が目の前で崩壊していく感じ。でも、本当はゆっくりゆっくりとそれらは起きてたんだ。見えていなかっただけ。

 今月はまだ、ゴールデンウィークがあった月なんだよ。それだけで驚けてしまう。

 昨日、銭湯に行った。もうそれから2日は経ったように思える。必死に覚えていようとしているけど、実感はどんどん遠のいていく。

 マイクをもらった。これはいつだろう。半月前...?

 学校のことはまだ大丈夫。あれらはとても規則正しく並んでいるし、シラバスという箇条書きだってあるから。

 もう私は前の私じゃない。今はそうでも、いずれ変わっていく。同一性は連続性と非常に仲が良くて、片方が死ぬと道ずれになる。私は連続性を「記憶と実感の喪失」で失ったから、自ずと同一性も失う。だから色んなことを「引き継がれたから」やるようになる。主体性なんて存在しない。穴抜けではあるけれど、言葉よりはきちんと伝わる記憶という非物理的な媒体を介して、私は私の振りをする生活に戻る、らしい。昔もそうだった気がする。n+1回目だ。日記をつけたら今後の役に立つかもしれないよ。このブログも忘れませんように。

 「好きなアニメを記憶消して新鮮な気持ちで見る」のが出来るのはやっぱおかしかったんだよ。普通の人はそんなこと出来ないもん。

 手がかりは、「私が全てを受け止められるようになる、あるいはその決意をすること」

寂しがり屋しかいないんだな

 ずーっと愛に飢えてる。家族全員で。

 私の母親はとある配信サイトにハマっている。のめりこんでいる。家族の構成員として最低限の肉体労働だけやって、あとはそこで星を集めては配信者に投げている。そこはとても視聴者と配信者の距離が近いから、どっぷり共依存を起こしてしまってるのが端から見てもわかる。

 妹は母が配信サイトにハマってから母の愛を恋しがり、その反動として与えられたお小遣いの大部分をゲームの課金に使っている。課金したいからではない。寂しいから課金している。変な気を起こさないように、と妹自身が風呂場に妹を隔離した時に、ドア越しに聞いた。

 母にもあったし、私にもあった症状だ。私達家族は、寂しくなると物を増やしたり金銭を消費することでそれをどうにかしようとする。愛で物理的に心の穴を埋めようとするのだ。その証拠に、母は配信サイトにのめり込んでから買い物依存症がぴたりと止んだ。メルカリに張り付いて雑誌を買いあさるとか、雑誌についている付録を小学生が修学旅行で荷物を抱えるみたいに運んで友人にばらまいたりしなくなった。別の方法で心の穴を埋めることに成功したからだ。おかげ様で同じ空間にいるのに意思疎通が取れない。耳にイヤホンが刺さってるから。配信者が頑張るから母も頑張る。星を集める。眠りこけて握ったコップを傾けてしまって床を酒でびしゃびしゃにする程度には。

 私はもう何年も、恋愛とやらに近づいたり離れたりしている。こびりついた私のトラウマの大半は、もうそこで新しく生まれたものばかりだ。痛くて苦しくて悲しいのに、目の前の愛しい“はず”の誰かは何もしてくれないだとか。結局穴だけだったとか。価値観も性格も趣味もそれでころころ変えた。

 妹は元々引きこもりだったし、他者交流に対して積極的でない。だから私や母のように、他者を巻き込んで何か起こしたりしない。ひたすら溜め込んで、いきなり爆発させる。その度に母はどうして私を責めるのと、妹を表面だけなだめるのだ。手元では忙しく画面をタップして星を投げている。イヤホンでは、母のHNを配信者が呼んでいることだろう。何がいいんだと言えれば良かったのだが、わからなくもないのが心境的に複雑だ。即物的な愛だ。誰かのために頑張って、お礼を言ってもらう。

 妹の世界はこの家族が殆どをしめている。外でたくさん痛い目にあってきたし、何より“そういうこと”のおかげで家族に対する信頼は抜群に高い。依存先には家族がちょうどよいし、それ以外の選択肢が思い浮かばないのだろう。私はかなり高頻度で恨みつらみを吐いているので除外される。父親はそもそも家にいることを好まず外にばかり出ているし“そういうこと”の汚れ仕事をしていないので眼中にすら入らない。

 残ったのは母。だから母に依存する。母に愛されることが全てになる。私達には反抗期が存在しなかった。おそらく妹は、きっと母の子どものままなのだ。盲目的に愛着を欲する。たとえ母にそれが出来なくても。

 皆ほしいものは同じだ。愛されたい。一番になりたい。優先されたい。でも私達の執着の矢印は全員違う方向を向いている。相互的になるのを嫌悪してさえいる。経験で成し得ないことを知ってしまっているんだろう。

「お母さんが構ってくれなくて寂しい」「寂しいと課金をしたくなってしまう」「そして今、その課金額が膨れ上がってきているのが嫌だ」

「課金したいと思えるだけ元気ってことじゃない」

 一言ひとことを繋げればわかる事実さえ見ようとしない。期待なんてしていなかったが、見ていられなかった。寂しいと呻く娘に、「自分がしたくないからしない」と正面切ってねじ伏せていた。でも私だって愛したくはないし出来ないから、母にとっての配信サイトにはならないし、妹にとっての母になろうとはしない。つらいよね。そういうだけ。

 ほんとうに不器用だね、私達は。私はそろそろ諦めてしまいそうだよ。楽になれるならそれでもいいかなって。でもそうすると何も感じ取れなくなる。だからどうしようかなと、うすらぼんやり考えている。全員地獄にいるんじゃ、助かりようなんてないじゃないか。