感想あるいは通過点

優しい嘘と化けの皮の下

血の色をした花を贈る日

 日々の感謝をこめてカーネーションを贈る。とてもわかりやすくていいと思う。バレンタインやホワイトデー、個人の誕生日なんかよりよっぽどやりやすい。関連を持てそうな企業はそわそわと広告を流すし、花屋はわかりやすくカーネーションやそれっぽいアイテム(フラワーバスやプリザードフラワー各種)を店頭に出す。参加しようと思えば脳死で五百円程度出すだけで「やった気」になれる、ありがたい日だ。
 私も、去年や高校最後の年なんかは参加した気がする。(感謝し物を贈る日に参加もくそもあるのかは知らないが)カーネーションとちょっとしたケーキ、あとハーバリウムをサプライズで贈った。とても喜んでもらえたし、その反応をもらえたのが当時は嬉しかった。

 今はそのことについて思い出すだけで胃粘膜が焼けるような感覚に襲われる。

 ここ数年で修復不可能なレベルの喧嘩をしたとか、今更感謝するという行為に恥ずかしさを感じるようになったとかそういうのではない。なにもない、と言えば嘘になるが、何かあれば怒鳴り散らし私をこき使った昔に比べれば、随分と丸くなった。理解するかどうかを度外視すればきちんと話を聞いてくれるようになったし、子守りを押し付けなくなった。まぁ、子守りに関しては対象がそれを必要としなくなったからというのが大きいが。

 私はまだ自分の面倒を100%見ることが出来ない。特に食事方面が壊滅的だ。材料を揃える、作る、それらを管理することが難しい。米を炊くのすら若干怪しい。まだ学生であるという金銭的な理由もあるが、私は未だに独り立ち出来ていない。そういう意味では、まだ母親の「親」には養育者という役割が色濃く残っている。

 感謝するのが妥当なのだとは思う。ここ数年だけを切り取って見れば。でもそうはいかないのは、私の生い立ちに理由がある。母は毒親で、私はとても広義に解釈した時、被虐待児に分類できる立場だった。そのことについて、私と母の認識にあまり深い溝はない。酷かったし、やり直せるならやり直したいし、償いや許しでどうにかなるのなら、そうしたい。お互いがそれを望んでいる。でも、過去はもう戻ってこない。タイムマシーンはどこにも存在しない。

 感謝すべき母の苦労と同じだけ、償ってほしいことがある。そのことを考えると、食道のあたりがかぁっと熱くなって、私の意識は少しだけタイムスリップする。あの日、あの時、あの瞬間、母が私に投げつけた言葉。頼りない背中。ぐちゃぐちゃになった部屋、etc.カーネーションを見ると思わずにはいられなくなるのだ。「私も素直に感謝出来る母親がほしかった」と。私はいつまでもわがままな子どものままだ。

 背伸びして、過去を見捨てて、あるいは全てを抱きしめて、精一杯感謝しようとした時もあった。それらは今、枯れずに残った置物として窓際に並んでいる。でもそれは私が私自身を殺していたにすぎない。世間一般が考える、理想の母子の姿。それに憧れ、表面を軽く擦っただけ。憧れて、見様見真似でやってみただけ。「母が求める娘を演じる」というトラウマを再演したに過ぎない。

 母だって、そうなりたくてそうなったわけでも、そうしたくてそうしたわけでもない。私の一番古い記憶があるときから、母の一番近くにいたのは私だった。だからわかってしまう。あれらはどうしようもなかったのだ。

 母に抱くのは、いつだって哀れみと諦めと懺悔だった。いつしか学校で書かされた感謝の手紙には、謝りたいことが箇条書きで並んでいる。それに関しても、年齢的に成人を迎えた後、きちんと書き直している。母が立派な親になりたがったように、私も立派な娘になりたかった。私がもしも自殺したと空想した時、一番最初に思い浮かぶのは、常に私の遺体の前でむせび泣く母の姿だった。認めたくはないが、私は心の奥底で母を慈しんでいるのだろう。ただただ、弱い人を可哀想だと壊れないように丁寧に扱う。そこに美しい愛なぞ存在しない。

 カーネーションを見ると、その裏に理想的な母子を思い描いてしまう。心の底から感謝して贈る一輪の花を嬉しそうに受け取る姿。温かくて、健気で、可愛らしささえ感じる家族の営み。私が同じ花を買い、同じように渡しても、絶対に内面まではなぞることはできない。その悔しさが、私の目をカレンダーや親の期待した顏からそむけさせる。

 植えつけられた完璧主義が故に、私は望ましい人間を演じたがる。その気持ちが、私に花を贈れと急き立てる。嫌がると、後悔するぞと脅すのだ。一年に一回しかないこの営みを逃せば、もうお前は完璧ではいられなくなるぞ、と。何か用事があって外に出ることがあれば、私はその渇望から逃げられなかったかもしれない。いつもありがとうと言いながら、血の色をした花を贈る。恩義なんて塵程度しか感じていないのに。

 いつか、本当の意味で感謝出来る日がくればいいなと思っている。その時には、奮発して花束を贈りたい。それが、たとえ墓前になったとしてもだ。