感想あるいは通過点

優しい嘘と化けの皮の下

そして健忘の日々へ。書き置き。

 全部忘れてしまう前に。

 つらい中でもちゃんと楽しいことはあったと思う。だから死にたいとかはなかったし潤いは存在した。でも足らなかったらしい。ちゃんと他人に興味が持てたはず、未来は多少明るかった、わたしはきちんと将来を見据えてた。はず。大学院に通いたいって、本まで買ってたもんね。すぐに社会人にはなれないからって思いつつも、夢があったんだもんね。すごいよ。すごかったよ。感覚は覚えてる。忘れないって素晴らしいことだよね。いっぱい考えることが出来た。脳みそが大人らしく動いて、過去の自分のメモを見て動く以上のことが出来た。こんなにも出来るんだって錯覚できた。楽しかったと思う。

 健忘が起きてるって病識を得てしまってから、消えた部分にフォーカスが当たった。感覚的には、今さっき自分で引き起こしたように感じられる。指先で弾いたトランプの山が目の前で崩壊していく感じ。でも、本当はゆっくりゆっくりとそれらは起きてたんだ。見えていなかっただけ。

 今月はまだ、ゴールデンウィークがあった月なんだよ。それだけで驚けてしまう。

 昨日、銭湯に行った。もうそれから2日は経ったように思える。必死に覚えていようとしているけど、実感はどんどん遠のいていく。

 マイクをもらった。これはいつだろう。半月前...?

 学校のことはまだ大丈夫。あれらはとても規則正しく並んでいるし、シラバスという箇条書きだってあるから。

 もう私は前の私じゃない。今はそうでも、いずれ変わっていく。同一性は連続性と非常に仲が良くて、片方が死ぬと道ずれになる。私は連続性を「記憶と実感の喪失」で失ったから、自ずと同一性も失う。だから色んなことを「引き継がれたから」やるようになる。主体性なんて存在しない。穴抜けではあるけれど、言葉よりはきちんと伝わる記憶という非物理的な媒体を介して、私は私の振りをする生活に戻る、らしい。昔もそうだった気がする。n+1回目だ。日記をつけたら今後の役に立つかもしれないよ。このブログも忘れませんように。

 「好きなアニメを記憶消して新鮮な気持ちで見る」のが出来るのはやっぱおかしかったんだよ。普通の人はそんなこと出来ないもん。

 手がかりは、「私が全てを受け止められるようになる、あるいはその決意をすること」