感想あるいは通過点

優しい嘘と化けの皮の下

まだ私は世話をしなくちゃいけないのか

 私はきょうだい児というタイプに分類される。つまりはそういうことだ。生い立ちはその他大勢とは少し違っていて、それはおいそれと他人に共有できない。私の苦悩は私だけのものであり、ネットを使わなければ近しい状況の人に出会うことは叶わない。そしてそうやって出会った人だって、程度の違いでわかりあえなかったりする。私だけのものというのはそういうことだ。状況の真っただ中ではそれを苦悩であるとすら自覚できず、己をすり減らす。そういうタイプの“社会の”病気だ。福祉から零れ落ちた、透明な存在。

 たくさんの後遺症を残しつつ、峠は越したと思っていた。私は手間暇をかけなければいけないという点において解放されたのだと。将来また向き合わねばいけないということを置いておいて、少なくとも一息つくことが許されたのだと。どうやらそうはいかないらしい。

 そういうことの一因として、母にもそういうところがある。生まれつきグレーで、それは生育環境で確定的なものになった、と推測出来た。毒親とも言えるし、ただただ可哀想で、愚かな被害者とも言える。そういうことに巻き込まれると、人間性は極端に歪む。これは悪い人間になったとかではなく、ただただ本人がぐちゃぐちゃにひん曲げられて生きにくい性質になるということを指す。時にコミュニケーションで問題を呼びこみ、時に精神的な二次障害を引き起こす。ここで私は母を徹底的に嫌うことも蔑むことも出来ないのだって、そういうことの影響だ。

 私はようやく子守りが終わったと思っていたのに、今度は親がそれをしなければいけないところまで落ちてきた。私には母がもう大人には見えない。その内面は怒られることを恐れている「大人に睨みつけられている子供」であり、常にしょんぼりと下を向き歯切れを悪くしている幼子が姿に重なる。私は母がきちんとその意志を外に発信できるよう手伝わなければいけない。そうしなければ、母の心の悲鳴とそれを怒鳴りつける父の咆哮で耳をおかしくする。やりたくなければやらなければいい、という段階に私はまだたどり着けていない。この小さい世界が私の全てで、生きるためにはまだそこにいる必要がある。檻もないのに、私は縛り付けられたままだ。

 老いた結果柔軟さを失っていく、ということ自体は想定していた。いつかの話ではなく微々たるものながら既にそれは起きていて、少しずつ酷くなっていくものだと。もしかしたら避けられるという希望ははなから無かった。でも精神的な介護が、ある意味育児が、もう始まってしまうだなんて夢にも思わなかった。

 大丈夫だよ怒ってないよとなだめながら、それで怒りを覚えるわけではないよと異議を申し立てる。会話は常に喧嘩だ。何より、両親双方が「そうしていればよい/そうすべきだ」と強固に信じ切っているのがなによりもつらい。声の大きさと説得力は比例しないし、相手の顔色を窺って秒単位で意見と立場を変えることは考えの共有に関して大きな障害になる。なのに両親はそれを知ろうとしない。話せば話すほど音量を上げていき、手のひらを回転させる。そのせいで話は本筋から離れ、会話は説教となり着地点を失う。もう両親は私抜きで「〇時に起きるよ」「わかった」という些細な意見すら疎通させることができない。

 母の趣味のせいで、そもそも母は父の言葉に気づくことすらできない。でも父は、怒鳴ればなんとかなるので気づくまで怒鳴る。なんとかなるというのは、音量で母が気づくのと私がその怒鳴り声で疲弊して母に合図をして気づかせるの両方を意味している。私自身の行いが父の怒鳴り癖を強化していると思うと、その事実に対してもげんなりしてしまう。もちろんどうにかしてくれと日々言っているのだが、両親は聞く耳を持たない。もう彼らは能力的に、それを持つことが叶わない。私がいなくなったら何か変わるのかもしれない。でも当分そうはならないから、わからない。私には知る術がない。私は今日も、「ちゃんとお父さんとお話ししたよ、お出迎えもした」と嬉々として報告する母を偉いねと褒めるのだ。