感想あるいは通過点

優しい嘘と化けの皮の下

ピントがあった世界に帰れない

 近視と乱視を持ち合わせているせいで、私は遠くが良く見えない。近くの物も若干ブレて見える。

 中学生の時に視力について注意を受けた。両目で視力が違うため、将来ガクンと視力が下がりやすい状態にあるという。本格的に悪くなって生活に支障を来たす前に眼鏡を作って慣れさせた方が良いと言われた。当時の私は眼鏡キャラに憧れていたのもありスキップを踏んで眼鏡を作りに行った。ある意味朗報だったわけだ。

 何度か作り直し、その間にも視力はだんだんと落ちていった。スマホ中毒なせいもあると思う。光の刺激自体は疲れ目を引き起こすだけという説もあるが、手元ばかり見て眼球のピントを合わせる能力を使わなかったのだから、そりゃ視力も落ちる。使わなければ眼球だって鈍るのだ。

 現在私の視力は生活に支障を来たすレベルに到達しており、看板などを読むことが若干難しくなっている。特に駅構内の案内などはちょうど私の見えない距離感とサイズの塩梅のせいで、近くに寄るまで何を示しているかさっぱりわからない。都営地下鉄なんかの、着色された丸い記号がやたら好きになった。自分の目的地に向かう電車が何線なのか、それはどの色なのかを覚えてさえいれば、駅構内までは文字を読む必要が無い。

 もちろん、見えないものは看板だけではない。遠くにいる人の顔、教室のスクリーン、色んな「見なくてはいけないもの」が見えない。うんと目を凝らせば日常生活には困らないが、授業中は予め眼鏡をかけるようになった。パソコンで作業する時にも、乱視が影響しているのか若干文字がぶれて見えるので、それによる疲れを回避するために眼鏡を出す、ということが増えた。

 日常生活に莫大な支障をきたしているわけではないし、眼鏡がなくても一応は生活していける。実際、駅構内だろうが看板を確認することが必須な入り組んだ街だろうが、眼鏡をかけることは滅多にない。面倒くさいというのもあるが、習慣にないというのが大きい。

 眼鏡に慣れさせた方が良いという言葉の「慣れ」には、目が長時間矯正された状態であっても痛くならないようにするという意味とは別に眼鏡をつける習慣そのものを身に着けるというのもあったのだろう。習慣という熟語だって、習う慣れと書くのだし。

 私は他者の顔が見分けられなくても看板が瞬時に判別出来なくても困らない。支障がないわけではないが、それは危機感を覚えるような重大な困難足りえない。そもそもあまり外に出ないし、人に会うこともない。覚えることがまず苦手なので見えたところで識別できるわけでもないし......。とにかく、眼鏡をかけることに関する動機が薄すぎるのだ。

 動機が薄い、必然でない、それこそが私の日常生活への支障の根幹である。私が眼鏡をかけるには、もはややる気以外何も理由がつけられないのだ。人は苦痛があれば心が改善に対し積極的になるが、そうでなければ楽な方へと流れていく。問題をなあなあにして、やる気を出さなくて良い理由を探すことに熱中する場合すらある。この記事を書いてる今だって、長年の勘で若干ぼやけた文字を見ながら打っている。眼鏡をかければもっとクリアに見えることは知っているが、自分で書いた文章なんてそこまで真剣になって読み返すことはあまりない。せいぜい誤字脱字チェックくらいで、記憶と照らし合わせればぼやけていても最終的にはなんとかなってしまう。だからこそ習慣付けが進まない。

 私だって、世界が霞んだままよりもピントがあっていた方を望む。眼鏡をつけると毎回こんなにも世界は美しかったのかと感動するし、活字が生み出す滲みのない黒と白のコントラストを視線でなぞるのは心が躍る。それでも、私は眼鏡をかけない。いや、私という存在は眼鏡をかけようとしてくれない。一日が終わって、目をしょぼしょぼさせながらああそういえば眼鏡をかけていれば、なんて言うのだ。馬鹿げている。

 私という存在は、生来こだわりが強いのだ。融通が効かないとも言う。靴、服、食事、友人関係、色んなものがそれで制限を受けている。決まったものしか食べられず、決まった服しか着れない。成長期でどんどん服や靴がサイズアウトしていくのは、苦痛極まりなかった。

 慣れたものから変えたくない一心で纏足でもしているのかというほどきつい靴を履き、その中では穴が広がりすぎてもはや虚無のところどころに布を縫い付けてたような靴下だったものを足にまとっていた。成長につれだんだんと許容範囲は広がっていったが、それでも出来れば毎日同じ物を身に着けたいし、同じ物を食べたいというのに変わりはない。慣れないと困る範囲だけ無理やり矯正された、と表現するのが正しい。

 そんな私が、一朝一夕で眼鏡を受け入れられるわけがなかった。目が普段とは違う負荷を受け、鼻あてと接触する部分がくぼみ、耳元ではマスクの紐や髪とツルの部分が渋滞を起こす。不快な要素が無視出来る範囲を超えていたのだ。憧れも数日で捨ててしまった記憶がある。

 そんなことをしてる間に、世界のピントはどんどんずれていく。

 いい加減なんとかしたい。そもそも私は認知特性において聴覚がかなり弱いのだ。文字にしろ映像にしろ、認知において言えば視覚がかなりの割合を占める。英語どころか日本語だって耳単体では拾いきれないことがある。そんな私から視界を奪えばどうなるか。世界を認識するための情報そのものがピンボケを起こす。思考そのものが奪われかねないのだ。ぼやけた視界を補正するのに使っているキャパシティを使えばもっと深く思考できるのに、常時それが制限を受けているという可能性だってある。ちょっと考えれば眼鏡をかけないデメリットなんで抱えきれないほど出てくる。でも、習慣は未だついていない。

 今回ブログを書くにあたってこのトピックを選んだのは、自分に危機感を叩き込むためでもある。頼むからいい加減にしてくれ。私。もうお前の目だけじゃ世界は捉えきれないんだと気づいてくれ。些細な支障が大きな事故を招きかねないことに恐れてくれ。

 それで早く眼鏡をかけてくれ。